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lamp.1976〜 




「目に見える根拠を信じるな」20120822
 目に見える事実はまだよい。目の前でヒトが死にそうになっている。だから何とかして助けようと努力すればよい。与えられる選択肢は少ない。目に見えない、現実に注意せよ。目の前で紛争が起こっているとして、裸一貫の自分に何が出来よう。そういう時は、逃げるしかない。では、テレビを通じて見えてくる、「紛争が起こっている」という情報に対して、私達はどう向き合うべきなのか。情報は事実ではない。「紛争が起こっている」という情報は、過去の残光であり、未来において再び惨事が起こり得るという気差しである。それらは私に3つの選択肢を用意する。@痛々しい情報を目に見えないところへ追いやる。A再び大勢の死傷者が生まれたときに助けるために、現地へ赴く。B紛争が起こる原因を突き止め、改善に尽力する。どれを選ぶかは、今の自分の状況に合わせるしかない。ただ私達はどこかで、「不合理にヒトが死ぬことを嫌う」気質があらねばならない。それは、前項で述べた、「無」の病に対抗する意志である。私達日本人の平和的な趣は、このような「無」の廃絶により作られたもので、それは新しい国体と、高度成長期の輝かしき有の信仰の賜物なのだ。戦争、良いではないか、争い、必要なものだ。そういった常識が蔓延するのは、先人の血により築かれた、当たり前の理想に対する冒涜だ。

 いまこの瞬間に見ていることは根拠とはならない。見ていることの中に見出せる、将来の有を根拠とすべきなのだ。有を信じないモノは、いずれ無に帰する。そういったモノが吐き出す無の毒にやられてはならない。私は有を信じる。有はこの現象自然界の摂理であり、それを否定することは、自己を含めた全宇宙を否定することであり、悪の気概そのものである。


「2つの死」20120820
 死には2つのレベルがある、と考えたほうがいい。一つは、有と隣合わせの死、恒久的な、万物のソースへ回帰する安寧の死。もう一つは、無から生まれた死、絶対的消失に向かう虚無の死だ。

 無から発生するものなど無い。なぜなら、無など存在しないからだ。ただし、無に還るものはある。それは「無」を体現しようとするモノ達だ。私たちは、「無」という文化的背景を創造し、維持してきた歴史を持つ。「無」という想像は、あらゆる概念を生み出した。「消失」や「価値」、「論考」なども「無」に属する。背景が「無」であるそれらの文化は、存在足りえないゴーストだ。無とは「空」未満の、つまり存在可能性を否定する世界のこと。無は人の想像世界内に巣くう病だ。宿主の既存性を無秩序化し、徹底して溶解させ、一つの素粒子さえのこさない。思想は徹底して分解され、塵ひとつ残らない。結果、大脳活動のバランスが失われ、身体を統括できず、バラバラに崩壊する。これが、「死」を怖いモノと思わせる病、虚無の死だ。本当に恐れているのは、「死」ではなく「無」なのだ。

 一方、世界の物理的観測は、無の病を和す。モノは例え燃やしても、本質的質量を変えることはない。ものの発現や消失は、あくまで人が築いた情報世界での出来事だ。物理的事実においては、ただ緩やかな変化があるのみである。ヒトは元来、そのような自然の虚ろいを、そのものの胎内より観測し、存在そのものを喜ぶために生み落とされたゼンの申し子だ。ヒトがすべきことは唯一つ、喜ぶこと。どのような事情があっても、ゼンのウチにて喜び続けられるならば、ヒトは全の意図を完うする。完全なるヒトは永遠となり、永遠の死と生のハザマに在り成す。これを安寧の死と訳した。観ずるべきは、あるがままのカタチ、感ずるべきは喜びのみ。外側にはただ、虚無の死が広がるばかりだ。


「複雑系への回帰」20120521
 己を知るということは、知りようが無いことを知るということである。あなたが何者であるかを説明できるということが、どれほどの喜びを生み出すのか、あなはた考えたことがあるか。
 われわれは、システムをドライブするために、パーソナリティを明示化し、それぞれのファンクションを割り当て、ソーシャルプラットフォーム内におけるシェアを規定しようとする。その者が規定できるファンクションのエフェクトレベルと、ロジックスキルによって、その者のソーシャルシェアはオートマティックに規定され、相応のエステイトが分与される。それは、人間がナレッジ内に築き上げた機械仕掛けの完璧なユートピアなのである。
 いま世界中に蔓延する、スマートという疫病を、われわれはどう受け流せばよいのか。あらゆる葛藤を捨て、今ある知の構造の維持を大事だと思うならば、すなわちあなたは、このオートマティックなユートピアの守り人だと言えるだろう。あるいは、あらゆる葛藤を捨てた後に、われわれを根源から支える真なる大系に寄り添い、われわれの分の内にて、改めてユートピアと向き合い、万事を喜び永久の営みを起こすならば、あなたははじまりの人と同じように、授かりし魂を継いで活くモノとなるだろう。
 なにも定義せず。なにも知らず。永久の静かな喜びに活きる。


「光と言葉」20120423
 あなはた光を探している。あなたを光へ渡す。

 あなたは日々、全てを晒せる場所にいますか? 人と話すより、語り合える場所を。空気を奮わせる言葉を。

 はじまりの話をしよう。意思は震えた。わたしはあなたを想像し、あなたはわたしを見た。わたしとあなたは震わせ合い、天地は成った。

 「光よ、あれ。」とは創世記にある有名な一説。「光」が量子の紐の陽状態を表すのか、はたまた生命が光学的な目を持った事件を表すのかは定かではないが、察するにヒトが目を得た時、ヒトは相対性を体感したのだろう。目を自覚する以前、ヒトは音の世界を生きていた。物事をハッキリと見分けなかったヒトは、お互いを音により感じあっていた。そのことは脳科学の研究結果に表れている。その時代は、とても平和だったに違いない。惑星の意志という大きなゆりかごに揺られ、絶え間なく、困難なく続く感覚の海を漂っていたのだ。やがてその時代は終わった。ヒトのあるグループが目を得たのだ。意図はわからない。ただ、彼らの強い意志がヒトに、限定された光の世界を認識する目を持たせた。その時からヒトは、互いを区別するようになった。男女がいつから別れていたかはわからないが、その恩寵により、想像していた異性に形が与えられた。コミュニケーションは様変わりした。お互いをわけないコミュニケーションは、分かたれた者同士を寄せるためのコミュニケーションとなった。言葉がいつからあったのかは分からないが、この文を書いていて、言葉は光よりも前にあったように思えた。ここでの光とはもちろん、相対性を生んだあの光だ。ヒトの歴史は言葉と共にあった。互いを一つにするのも、互いを殺しあうのも、言葉が可能にしたのだ。私は言葉を残す努力をしよう。先の世に伝える、物語を携え。


「発明という幻想」20120411
 ウェブテクノロジーにまつわる様々な発見、発明は、古来から豊かな発想と深い人間関係を重んじていた崇高な人々ならば、誰もが持っていた情緒共鳴技術の、再発見、再発掘にすぎない。

 たとえばネット上でもリアルでも、大勢の人の間に、風評のネットワークのようなものがあることは容易に想像できると思うが、そういうネットワークが大昔も同様にあったことは、あえて例を挙げるまでもなく明白だ。大昔、大きな文明が大きな大陸一つに存在していた頃、人は船で大洋に漕ぎ出でなくても、人類全体の共鳴ネットワークは確立出来ていた。それが困難になったのは、陸が別たれ、別々の言語をもった多様な民族性を、人類が獲得したからに相違ない。

 たとえば、現在ほど多種多様なロゴスが存在しなかった時代、人々はとてもシンプルで短い音の組み合わせで意思疎通をしていたわけだが、彼らは言語以外の感覚、匂いや音色、圧力の高低、つまりは微細な振動から荒々しい振動までの、無段階的な多チャンネルコミュニケーションを行っていたわけで、現代のウェブテクノロジーや、準ずるコミュニケーションテクノロジーは、太古の失われた技術を掘り出して、現代の物質原理において再現しているに過ぎない。

 新時代、進化、2.0、さまざまな美辞麗句が乱舞するいま、実はそのほとんどが「あたりまえ」のことにキャッチコピーをつけて再販している商売人の所業にすぎない。世界総マーケティングの時代である。もちろん、そのような商品を求めているクライアントが多いからに他ならないわけだが。

 いま、われわれ個々人は、1つの選択肢を乗り越えねばならない。
それは、物事の順序を“保つ”か、“捨てる”か。「個性、独自性、創造性」それらの感覚が鮮度を失いつつある中で、多くの人々が“よりどころ”“よりしろ”をさがしさまよい続けているのが今の今だ。そして多くの人が、そのヒントは「人とのつながり」にあると分かっている。だからこそのSNSであるし、“企業”“男・女子会”“合コン”“カフェ”“サークル”“同人”つまりは寄り合い・コミュニティーなのである。「情報はすべて並列である」という考えは、一昔前のITが持っていた幻想である。多くの人間の欲求を管理するGoogleのヴァーチャルブレインは、そのことを良く分かっている。人の求めることとは、とどのつまり○○である、と。その○○を想像するのが、物事の順序を知るためのヒントだ。


 ある3人が、突然無人島に隔離され、それ以外の島は全て水没し、人類がたった3人になったとする。 70億人が3人になるということは、人類のポテンシャルが70億分の3に目減りするわけではない。3人の肩には各々、23.3億人分の魂が乗っかってくるのだ。そのことを思えば、今この瞬間から私を規定する単位は、“1人”でなくてもよくはならないか。140文字のつぶやきで、23億人の言霊がいかに発せられようか。


「素直に演技する」20110821
 「ヒトはみな、演技をするものだ。」とよく言われるが、それはどういうことだろうか。
昔々、どこかの誰かが、意中のヒトに想いを伝えようとしたが、いくら言葉巧みに表しても、相手は心を閉ざすばかりだった。そこで彼は試行錯誤しながら、自然と言葉以外の表現方法を体得していったのだ。
“抑揚”。音の高低や速さ、拍子、間、これらは聞き手の可聴場にユニークな波動パターンを生み、情動を起こす。“物語”。脚本とシナリオは、聞き手の人生観の投影を容易にし、時間的な因果関係が深い得心を作り出す。“かぶき”。視覚的な創意工夫により、総てに華が添えられて、視覚野を通じた煌めき、光の舞踊を届ける。
これらの表現が完成すると、彼と相手との間に非言語的な一体感が生まれ、相手の意識は全体性への回帰を果たし、硬く閉ざされた岩戸は開かれたのだ。

 過去にこんなことがあったかどうかは知らないが、あったのであれば「演技」という文化の必然的遇有性が明らかになる。

 どこまでが演技なのか。自分のこれまでの行いを振り返り、「あの時は演技した」と言える事は誰しもあるだろう。例えば親に怒られたくないからウソをつく。そのウソがウソと見破られないよう、平静を装う人がいれば、相手の注意を他へ逸らそうとする人もいる。つまり日常の中にも(環境によっては)演技をする機会はよくあるということなのだが、注目すべきは、何をもって演技が完成するのか、だ。

 結論から言うならば、先ほどの仮想昔話の中の最後のフェイズ、「演者と聞き手の一体感」、そして「相手の深い得心」。これらは聞き手にその演技が本物だと信じ込ませることを意味している。これらを生み出せなければ、演技はただのウソになり聞き手との相互コミュニケーションが生まれない。つまり演技にならない。

 現代人は日ごろ、膨大な量の言葉を生み出していることだろう。言葉と脳の関係はまだ充分に分かっていないが、それはつまり自分の言葉に完全に意識的な人はさほど多くない、ということではなかろうか。聞き手が信じるかどうかで演技が完成に至るのであれば、われわれの言走りの一つ一つは演技となりうる。そう自覚していなくとも。みずからの言葉が「演技」かどうかは大した問題ではないが、自分の表現が相手に信じてもらえるかどうかは割りと重要かもしれない。

 自分の表現を相手に信じてもらえた時点で演技が完成する。これを理解できたのであれば、その次のフェイズがあり、それが演技にとってとても重要な問題であることも理解できるはず。
 普通、演技を完成させるには、演者の意思は大した問題じゃない。演者はただ信じるに値する表現をすればよいのだ。ではもし、演者自身がみずからの表現を真実だと信じてしまったらどうだろう。演者も受け手も真実だと信じられたとき、間に発せられた表現は果たして「演技」なのか。誰も疑うことのない「自己表現」を完成させた者の振る舞いを、「演技」と呼ぶならば、それは嫉妬からくる揶揄のようなものかもしれない。

 「演者」はやがて「現者」へ。ウソは演技へと登り、そして真実へ昇華する。これが私の描いた「演技」の曼荼羅である。

総ての演者へ、さきわえ


「死を殺せるか」20100626
 私はいそいそと新宿御苑を目指していた。今回のテーマでは死を扱う。死を思考することは、生を思考すること。今抱いている死生観を修繕する、そんな意図を込めたテーマだった。「このテーマは1人でいい」そう思っていた。6月の憂鬱で湿気た風に当たりながら、脈々とそして活き活きと命を巡らせゆく木々を見つめ、死生に対峙する姿勢を見直す、そんなイメージが浮かんだ時、1人でも充分にやれそうだと思ったのだ。

 待ち合わせ場所に着くと、そこには2人の見慣れた顔。少し安堵したような、そして少し惜しいような、微妙な幸福感が湧き上がる。
 わたしは以前から、脳死についての疑問が尽きなかった。脳が死ねば、必然的に人は死に到る。程度の差はあれ、生命活動は滞り、個体の存続が難しくなるのは明白である。だから、脳死は人の死だと言われても、何の疑問もない。問題は、脳死という概念が存在していること。脳の機能停止を、人の死から切り離して考えられるようにした技術が、何のために生み出されたかに終着する。目の前で誰かが怪我をし、ドクドクと出血していたら、やはり止血しようとは思わないか。しかし、頭の中で起こっている出血は、手で押さえることは叶わない。だからこそ、あえて危険を冒し、アタマを切り開き、出血を抑えてくれと医者にせがむ。いや、誰しもアタマを切り開いて欲しいなどとは思っていない。その選択肢を生み出し、患者やその家族にあてつけた犯人がいる。それは医者の哲学と技術だ。

 彼らの哲学は、脳がその役を終えていても、個体として死に到らせなくする技術を生み出した。人々は、そのいつ訪れるとも分からない突然の死を恐怖し、医者に安堵させて欲しいと願った。医者達は彼らの恐怖は取り除けるものと自らの役を過信し、アタマという禁断の領域にメスを入れ見事に彼らの恐怖を拭い去った。それはまるで店頭販売のオジサンのように、見事に。そして1つの悲劇が起こったのだ。脳の物理的な観測を進めるうちに、脳だけが機能停止するという見解を生み出した。先ほどのべたように、脳が役を終えれば、体全体も役を終える。それは古から続いてきたヒトという現象の、終え方の1つだったのだ。ところがその均衡を打ち破り、脳が終わっても体が終われない技術を生み出した。これがまさに脳死。脳だけを死なせる技術である。

 1人は語った。昔は、死という現象をさほど厳密に捉えようとはしなかった。 放っておいたら死んでしまった。これが死の最も自然な捉え方と言えよう。しかし、放っておかなければ、死を逃れたかもしれない。そんな思いが、生死についてより意識的にさせたのだ。ところが、近代の医学では放っておかないための観測よりも、どこからが死なのかを切り分けるための観測の方が活発であったように思える。

 死の判定・・・面白いことに、人は他人の死を判定したがる。ただそれは純粋な興味からではなく、あらゆる効果を狙ってのことだろう。例えば、死亡と決まれば、臓器をリサイクルできる。例えば、死亡と決まれば、財産の分配ができる。例えば、死亡と決まれば、その奥方と仲良くなれる。例えば、死亡と決まれば、次は誰がそのポストに就くかを予想する楽しみができる。純不純、善悪の判定などは置いといて、死亡判定には、何がしかの効果を早期に授かれる可能性を生む利便性がある、と言い表すのが正確ではなかろうか。そういう視点を重んじるならば、脳死という技術と利便性の関係は、よく見極めておく必要がありそうだ。

 死の意志・・・1人は語る。本人の意思が重要である。先ごろ、ぼう有名文具メーカーがこのような商品を発売した。その商品はこう語る。「遺言書は、死の負担を軽くします」と。死の臭いが変わってゆく。

 墓の行方・・・死者は尊い。そして、死者は生者を縛る。いつから始まったのか分からないが、墓という仕組みに代表される死者(先祖)を敬う風習は今も守られている。「ご先祖さまの死があったからこそ、今の幸せがある。だからご先祖様に手を合わせ、子らの繁栄を祈る。」墓のシステムには、このようなコンセプトが内包されている。ただ、いつの時代も解釈は変わるもの。「我らの血筋は、まことに高潔な武将の血。この血を穢れさせる因子は排除すべし。よってお前はこの墓には入れさせん」このようなコンセプトが後付けされ今も踏襲されている。時代は少しずつ移ろっている。血を分ける時代は終わり、気を重んじる時代へ。墓のシステムは、それなりに昇華しようとしている。顔写真入りの墓石があるらしい。将来はホログラム墓石か。

 死体の行方・・・「首狩り族は、殺した相手の髑髏を身に付け、死者を弔っている。」そう考えれば、彼等なりに道理が通っている、ということになるのだろうか。しかし殺人は殺人である。BSE、牛が狂ってしまう病気。原因は“共食い”。ナチスは、大量虐殺した死体の処理に困り、死体の油脂から石鹸を作った。死体の工業製品化。みせしめ。臓器移植→便利→脳死。

 生きているとは何?・・・例えば生とは覚醒している状態、死は寝ている状態とするならば、生は意識がある状態のことなのかもしれない。意識があるとはどういうことなのか、何かしらの働きかけに対し、リアクションがある状態と捉えるならば、水も生きていることになる。

 生きていると想うこと・・・実は我々人間は、厳密に「生きているかどうか」を判定したいと思っていないのかもしれない。厳密な生など、知ろうとすればするほど、詰まらなくなる。動いているものは、活き活きとしている。柔らかいものは、めでたくなる。血は動物の体内を巡る。水は森の体内を巡る。犬や猫、ぬいぐるみの気持ちさえも、知ることができる。目に見えない、風さえも、活きているのかもしれない。

 6月の、湿った生ぬるい風を受け、3人は森を歩く。死に想いを巡らせるより、生に巡らせる方が、やはり愉快だ。公園を抜け、千駄ヶ谷でお茶を一杯。思考の中の“死”は、いつのまにか“生”に成り代わり、3人に心地よい疲労感をもたらした。

 シ・・・「シ」という音に、日本人は様々な情景を描いてきた。シゴトのシ、シマウのシ、シクミのシ。シには、何かしらのシメや「為す」のニュアンスが含まれるように思える。そう信じるならば、脳死の技術はヒトの「シ」の妨げとなっているとは言えないか。そう。シは殺せるのだ。